寛政二年(西暦1790年)に創業。初代当主 萬屋八五郎が現在の地に蔵を開いたのが始まりです。
江戸時代後期ここ増穂の地は富士川を使った物流拠点として賑わっていました。「甲州三河岸」と呼ばれたこの地から富士川河口の岩淵(現静岡県庵原郡)まで下りその後江戸まで廻船にて諏訪や甲斐からの年貢米を運んでいました。
当初の酒銘は「一力正宗」。 酒だけでなく醤油・味噌・みりんなどの製品も手掛けており、当時この地での萬屋醸造店の繁栄が想像できます。
その後の鉄道や道路の整備など新たなインフラの登場により物流拠点から、美しい山紫水明の観光地としての増穂の里へと時代と共に移り変わっていくのでした。
時代の変化と同じく、酒銘も「春鶯囀」と変わり、昭和の始めには味噌・醤油・みりんと共に酒七百余石(約126㎘)を製造する蔵となっています。
昭和27年、七代目当主平一郎は、この醸造蔵を株式会社萬屋醸造店へと法人組織に改編をしました。
これを機に戦中からの流れであった糖類を添加する酒造りを徐々に削減。
昭和51年糖類の使用を完全に止め、いわゆる三増酒(さんぞうしゅ)の廃止を高らかに謳いあげました。
昭和53年当時としては珍しい「純米吟醸酒 春鶯囀」を発売します。 純米酒志向を強めていた萬屋醸造店ですが、昭和54年「純米吟醸酒 冨嶽」を発売し、さらなる上質な純米酒を求めていきます。
平成元年、新しい酒蔵を落成させた八代目当主元一郎は、この増穂の地での酒造好適米「玉栄」の栽培を地元の農家さんと共に開始しました。
この「玉栄」を使った「純米酒 鷹座巣(たかざす)」の発売を迎えた時、萬屋醸造店の酒製造数量に占める純米酒の比率は約80%に達していました。
令和4年、「幸せにそっと寄り添うお酒」というスローガンのもと、社員杜氏を中心に新しい挑戦として世界に愛される日本酒を目指し、地元産 酒造好適米山田錦を使った精米歩合40%の純米大吟醸酒「磨き40 233」を完成させました。
加藤忠一氏描画